「理由」はなくても「ご縁」はあった
もくじ
「居場所」を探して
(真夜中に輝く京都タワー)
こんにちは。西野です。早速ですが、この記事は「京都に来た理由」シリーズの一つです。しかし、京都に来た理由が何だったか、今となってはあまり思い出せません。「えっ……!?」となってもまずいので、もう少し筆を進めてみます。
まとめブログ、Twitter、5ちゃんねる、Wikipediaなどネット上のあちこちに出入りしてきた私が、沖縄のウェブメディアに影響されて「ウェブライティング」なることをしてみたいと思い立ったのはセンター試験が終わるかどうかぐらいの頃だったように思います。
しかし入試は難航し、ぎりぎりまでどこの大学に行くかを考えていました。そんな中、情報収集している段階でたまたま『コトカレ』の同志社大学に関する記事を読みました。
これが自分と京都学生広報部の出会いです。
また調べていくうちに京都には「大学コンソーシアム京都」という組織があり、大規模な単位互換制度を行っているということを知ったことも京都の大学に興味を持ったポイントの一つです。大学コンソーシアム京都さんとここまで深く関係することになるとは思いませんでしたが……(笑)
そして実際のキャンパスを見るために京都に行くことになりました。修学旅行ぶりに来た京都は真夜中だったと記憶しています。
京都駅を出ると周囲のお店はすでに閉まっており、京都タワーの明かりだけが煌々とともっています。もちろん、周りに友達はいません。
「あれ、こんな感じだったか?」
「来た理由」どころか、私の「京都生活」は京都についてほとんど知らないところからのスタートだったのです。
そして京都の同志社大学に入ることになったものの、来たところで知り合いもいません。「ぼっち」な私にとって居場所は見つからず、あれこれ新入生歓迎会に行くなどしましたが、サークルどころか、部活の類が続いたことがない私は迷っていました。
しかし1回生の夏に祇園祭を見て京都の文化に興味を持ち、やっぱり京都学生広報部に入ろうと思って応募フォームを開きました。それが私の京都学生広報部員としてのスタートです。
ミーティングが行われているコワーキングスペースcotoに初めて行った時のことは今でも覚えています。始めは不安も多かったのですが、いざ入ってみると皆さん快く迎え入れてくれました。それ以来、京都学生広報部は京都における重要な「居場所」だと思っています。
京都学生広報部には様々な個性を持った部員がいます。私も含めて変わった人も多いです。ですが、そこがいい。
私は京都学生広報部の財産は「人」であると思います。京都学生広報部は企業ではないのでノルマはなく、インターンではないので学部や志望もバラバラな学生が集まります。つまり様々な種類の部員が集まり、参加の仕方に自由度が高いのです。そのうえで「公共メディア」の構成員として一定の倫理観が求められます。そういった団体としての特性が独特の環境を生み出しているんだと思います。
そんな部員たちが思い思いに制作した記事や動画が「ストック」として蓄積され、それが新たな人を呼びこんでいく。それが『コトカレ』というメディアだと思っています。
そういうメディアなので、あらゆる学生の参加が歓迎されます。私もミーティングに出たりイベントに参加したりしていくうちに、自然と溶け込んでいけたように思います。
「京都の大学生」
(京都学生祭典にて)
2回生にもなると学業や暮らしも安定してきました。京都のあちこちに出かけたり、単位互換制度を利用して他の大学にも行きました。「京都の大学生」を最も楽しんだ時期だったといえるかもしれません。
京都学生広報部についていえば部員が増加したため、ミーティングはコワーキングスペースcotoに加えて収容人数の多い下京青少年活動センターで行っていました。三々五々集まってみんなで机を出すところから始めていろいろなことを話し、帰りには塩小路通を歩きながら雑談したことなど思い出します。
そして、私はとあるきっかけで「副リーダー」として運営に参加することになりました。副リーダーとして心がけたのは「一人ひとりを大切にする」ことでした。自分の「居場所」でもあったので、誰かの「居場所」でもあって欲しいと思ったからです。ミーティングの運営のほか、機会を見つけて各部員とコミュニケーションをとるように心がけていました。
リーダー、副リーダーと呼ばれている幹部の学生は、京都市や大学コンソーシアムの職員を中心とした事務局の方々との会議にも参加します。『コトカレ』は全国の中高生に京都の大学の魅力を発信することを目標としており、行政の取組を広報することも多いメディアです。会議では『コトカレ』の目標や技術的な側面などについてじっくりと話し合います。こうした中で「公共」という観点から街の未来を考える行政機関の考え方を間近で学ぶことができました。
社会人と関わる機会が多いのも京都学生広報部の特徴だと思います。取材で様々な方にお会いしますし、「学生代表」として市のイベントに出席したり「市民公募委員」として京都市の委員会や審議会に出席したりする部員もいます。
京都で学生生活を送るメリットは様々ありますが、自分たちで「街を動かす」機会が多いという点も大きいと思います。京都は伝統がある街ですが学生を応援する文化があり、「学生さん」が行政から企業、神社仏閣、社会福祉や地域振興など多くの分野に関わっています。各大学や大学コンソーシアム京都でも、神社で行うプロジェクト型学習や伝統産業へのインターンシップなど、京都ならではの多彩な体験授業が用意されていますよ。
幹部としての行動については特に当時の2回生の部員の皆さん、中でも編集チームの山下さんと米島さんにはお世話になりっぱなしでした。ありがとうございます。ミーティングの後タワーサンドで話したことや、豪雨の中、東山の青少年活動センターでたった4人のミーティングをしたことなど思い出します。
個性の異なる3人ではありますが、それぞれライティング研修を受けてきたり、メディアやサイト作りに興味があったりと、何かしら通じるものがあってこうなったんだろうと思っています。中々会う機会がありませんが、今後ともよろしくお願いしますね。
それでも「つながり」は残った
(閉鎖される直前の教室で)
『コトカレ』の令和2年度(2020年度)最初の記事は「新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止に向けた京都の学生団体からの日本全国の学生の皆さんへの呼びかけ」でした。
この記事は大学を含めて新型コロナウイルスの感染が広がる中で、新入生歓迎会の中止などを呼び掛けるものでした。「第一波」による混乱状態の中、PRチーム リーダー(当時)の青木君が京都市役所にバタバタ出向いてカメラの前に立って,日本全国の学生の皆さんに呼びかけをしてくれたそうです。
その後は多くの人が知るとおりです。大学には授業開始の遅れや構内への立ち入り禁止、慣れないオンライン授業など多くの変化が訪れました。課外活動も休止を余儀なくされたため、多くの部活やサークルも活動を休止しました。そんな中でも京都学生広報部は動き続けました。そのカギは「デジタル」と「つながり」にあったと私は考えています。
まず、京都学生広報部ではコロナ禍以前からテレワーク体制が出来上がっていました。もともとは学生同士の共同作業や記事のやりとりを行うためのシステムでしたが、緊急事態宣言下では有効に機能したと思います。そのためミーティングがビデオ会議になっても、やることが決まれば完全オンラインで作業ができました。現在ミーティングは対面とオンラインが併用されていますが、今後もし緊急事態宣言が出たとしても京都学生広報部は活動を継続できると思います。
もう一つはこれまであった「人のつながり」です。上で書いたように京都学生広報部では一人ひとりを大事にしてきたと思います。毎週木曜のミーティングや綿密なケアで培われてきた「つながり」は、たとえ離れ離れになっても途切れなかったと思うのです。緊急事態宣言下でも、どこかでつながっているような感覚はあったと思います。むしろ人に会えない生活の中で、顔を知っている人たちと話すよい機会になったかもしれません。
こうした努力の結果、『コトカレ』は平年とほとんど変わらないペースで記事を更新し続けることができました。また、京都学生広報部としてはJR西日本コミュニケーションズさんのや北野天満宮さんでの「合格祈願絵馬プロジェクト」など、学生や新入生を元気づけるようなイベントの企画・実行を進めていきました。
『鬼滅の刃』の煉獄さんではありませんが、京都学生広報部は緊急事態の中でもその責務を全うしたと思います。私はこのことを心から誇りに思っています。
特にリーダーを務めた当時2回生のみんなは頑張ってくれました。大変だったと思うけど、ありがとうございます。
「ご縁」をつなぎに
(鴨川のほとりで)
とはいえ、コロナ禍は長く続いていきます。そこに就職活動の時期が重なり、互いに連絡を取り合うことも少なくなっていきました。そんな中、令和3年11月に交流会が行なわれました。長く会っていなかったので、もはや「同窓会」という感じです。それでも会えば以前のように話すことができました。
そして12月には以前からお世話になっているよしもと祇園花月さんを利用させていただき、京都学生広報部の1年を振り返るイベント「コトカレアワード2021」が対面形式で行われました。久しぶりに会った先輩は健康そうで、同輩は懐かしく、後輩たちはすでにイベントを実行する頼もしい存在になっていました。ここにきて、コロナ禍は全てを壊したわけではないのだと確信できた気がします。
これから世界がどうなっていくのか全く分かりませんが、私たちが受け継ぎ・育ててきたものを生かしていけば大丈夫な気がします。
考えてみれば、京都の人々もこうして生きてきたのかもしれません。京都は何度も戦火や災害に見舞われてきた街です。応仁の乱、慶長伏見地震、禁門の変……しかしそのたびに京都は復興してきました。
京都はしばしば「千年の都」と呼ばれますが、それは1000年前の街がそのまま残っているという意味ではありません。壊れたところは作り直し、ときに新たなものを大胆に取り込みながら「京都」であり続けた。それが京都の「伝統」なのだと理解しています。
確かにコロナ禍は大学生にとっても大きな出来事でした。しかしどれだけ生活を破壊されても、そこから「新しい学生生活」を建て直していける力が京都学生広報部も含めた「京都の大学生」には備わっていると私は信じます。
そうでした。「京都に来た理由」。最初に書いたように、大した「理由」はありませんでした。言い方を変えれば、はじめは京都に来た意味を見出せなかったということです。それでも何かの「ご縁」に導かれて京都に来て、そこで多くの人に出会ったりあれこれ動いたりする中で「意味」を見つけることができました。
私は京都で出会った人たちが大好きです。今いる部員さんはもちろん、先輩や退部した方なども含んだ全ての部員さん、京都市や大学コンソーシアム京都の皆さん、組織運営を支えてくれるCRA(クリエイター育成協会)・タグラインの皆さん、そしてこの街の人たちすべてに感謝して結びといたします。今にして思えば、皆さんに出会うことが私の「京都に来た理由」なのかもしれません。
そして今ご覧になっている皆さん、もし京都の大学に来られたら京都学生広報部に是非どうぞ。きっとあなたを待っている人がいるはずです。
これも何かの「ご縁」かもしれませんよ?
(同志社大学 社会学部 西野洋史)