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学問の神様として知られる北野天満宮の魅力を大公開!!

皆さん、北野天満宮にお参りに行ったことはありますか?北野天満宮と言えば学問の神様として有名ですよね!
そんな北野天満宮の魅力を、権禰宜の堀川さんにたくさん聞いてきました。この記事では、北野天満宮の歴史をはじめとして牛、梅、松など北野天満宮に訪れた際には絶対に目にするものからマニアックなものまで、多岐に渡ってご紹介しています。北野天満宮にお参りに行く前に、ぜひこの記事を読んでみてください。

北野天満宮の成り立ち

(北野天満宮権禰宜の堀川さん)

–北野天満宮の成り立ちについて教えてください。

北野天満宮の御祭神は、平安時代の立派な学者として有名な菅原道真公です。
道真公は宇多天皇に気に入られ、右大臣に登用されました。しかし、当時の左大臣である藤原時平にとって、多方面で活躍していた道真公は少し目に余る存在でした。

そんなときに、皇位が息子の醍醐天皇に継承されましたが、彼はまだ幼かったため政治などに少し未熟でした。
それを利用し、藤原時平をはじめとする藤原家は、道真公が裏切ろうとしていると醍醐天皇に嘘をつき、無実の罪にも関わらず道真公は太宰府へと左遷されてしまいました。

道真公は太宰府へ流された2年後に亡くなられましたが、その後平安京ではたびたび天変地異が起こり、藤原時平と醍醐天皇も病で亡くなってしまいました。都の人たちは、これを道真公の祟りだと恐れました。
そこで、怨霊として恐れられた道真公をお慰めするために、北野天満宮に神様としてお祀りするようになりました。

北野天満宮のように、怨霊として天変地異を起こしている神様を鎮める信仰を“御霊信仰”といいます。
この御霊信仰からはじまり、道真公は戦国時代には武の神様として、江戸時代以降は学問の神様として信仰を集めました。これが北野天満宮の成り立ちの一端です。

–道真公は冤罪で太宰府まで左遷されてしまいました。このことから、道真公は今でも恨みの感情があるのではないかと思いますが、その感情を鎮めるための儀式や祭礼などはありますか?

 道真公をお慰めする行事は今も連綿と続いていて、北野天満宮でのお祭りの多くが、道真公をお慰めするのに通ずるところがあります。

北野天満宮は文化の神社でもあり、さまざまな文化が花開いた場所でもあります。たとえば、豊臣秀吉公によって北野のお茶会が開かれたり、歌舞伎の発祥がこの北野天満宮であったりと、文化芸能、和歌、漢詩、連歌、雅楽、能、狂言…これらのものはすべて道真公をお慰めするために行われていました。

そして、我々のいちばんの仕事は道真公をお慰めすることです。道真公は当初は怨霊でしたが、御霊信仰により良い神様に転じ、みなさまから信仰を集めています。
ですから私は、「許せない」という感情があるとは思いません。

“飛松伝説”について

(島田忠臣翁が御祭神の老松社)

–飛松伝説(現在の兵庫県神戸市にある、道真公にゆかりのある松に関する伝説)について、ご存じのお話があれば教えてください。

北野天満宮を中心として、天満宮は全国に1万2000社あります。そのため、各神社によってご由緒の伝説・伝承が本当にたくさんあります。
そのため、それぞれのお宮で各伝承があり、 “飛梅伝説” (とびうめでんせつ:梅が京都から道真公がいる大宰府まで1日で飛んでいったという伝説)のように京都から空を飛んで太宰府へ飛んでいったという説もあれば、道真公が大事にされていた梅を家来の方が一緒に持っていき、その地で植えたという説もあります。 

  

そして、この“飛松伝説”と近しいお話が北野天満宮にも1つ伝わっています。

御本殿前の三光門前にあるお社の1つに老松社があり、その御祭神の島田忠臣翁は菅原道真公の家来でした。
北野天満宮の由緒を書いた“北野天神縁起絵巻”にもあるように、島田忠臣翁が道真公に付き添って大宰府まで一緒に行き、そこで道真公は無実の罪を天に報告するために、天拝山という山に登って七日七晩天に祈祷をしました。

その時に、島田忠臣翁が京都に戻られて、道真公が梅と同じぐらい松と桜も愛されていたので、大宰府に持ち帰ってその地に植えたという伝説もあります。
これも飛松伝説の一端かもしれませんね。

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