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それでも私は文学部に入りたかった

どうも皆さん。文学部 日本文学研究学域の山下です。
タイトルから察してください。今回の自己紹介で強調して読むべきところは『文学部』ですよ、皆さん。

「文学部は、社会に出て何の役に立つのか?」
「文学部は、大学での教育として存在意義があるのか?」

『文学部』に喧嘩を売っているようにしか聞こえないこの言葉たち(笑)。
でも『文学部』に対する世間のイメージは、実際こんなものである気がします。

私も、他人に所属学部を尋ねられたとき、「文学部だよ」と言うと、往々にして反応に困ったような微妙な返答をもらいます。
そんなことは入る前から分かっていました(笑)。
「就職に困る」とも散々言われました。

でも、それでも私はどこの大学でもいいから『文学部』に入りたくてしょうがなかったのです。
そして、待望の『文学部』に在籍している今。
もしもう一度大学生活をやり直すことができると言われても、やっぱり私は『文学部』を選びます。

どうして私が『文学部』にそんなにこだわるのか。
その理由をお話ししましょう。

本の虫が描いた夢


(これは実家の部屋の本棚の一部です)

まず、私の頭の中に『文学』が染みついた経緯をお話ししましょう。
平たく言えば、幼少期から本の虫だったんです。
父親曰く、「母が幼少期から私に本を与え続けていたから自動的に本好きになったんだ」ということらしいですが……(笑)。

小学校では毎日図書館に通い詰めて小説やノンフィクション作品、伝記などを読み漁り、中学生になると、両親からもらったおこづかいで書店に小説を買いに行くようになりました。
高校では現代小説のお決まりパターンに飽き飽きしてしまい、物足りなさを感じて夏目漱石などの近代小説に手を出すようになりました。
(そして今では活字症候群のように、なにか文字があったら読まないと落ち着かないという特質を得ました(笑)。)

もちろん、それなりに友人もいて遊んだりしていたし、運動も好きだったし、イケメンアイドルにだって興味もあったし、音楽にも興味はありました。
いくら本の虫とはいえ「本しかない人生」というわけではなかった私。
でも、それでも嫌なことがあった時、真っ先に逃げるのは本の世界でした。
そして、一時的にでも嫌な記憶を忘れさせ、体験したことのない様々な景色や感情を味わわせてくれた本の世界にいつしか夢を持つようになりました。

「この世界の裏側が知りたい。作者は何を背景にこれを描きどういう思考回路をしているのか。そしてそれを語れる仲間が欲しい。」

文学研究は趣味で充分?

さて、前述したこのささやかながら強い夢を叶えるためには、大学へ進学して『文学部』へ行く以外、私には考えられませんでした。
学校の先生は、理数系がとんでもなく苦手だった私の『文学部』という選択に特に反対していませんでしたが、両親の反応は微妙なものでした(笑)。

「文学の研究なんて、自分1人でもできるでしょ?」
納得しかけたからこそ心に残っている両親の言葉です。

確かに趣味の範囲で、自分で学術書を探して読んだりすることはできるかもしれません。インターネットが進んだこの時代では特に、調べれば何でも出てくるものだと思われがちです。最近では匿名で本の感想や考察を書くことができる掲示板もあるので、他人の意見を知ることも可能です。

でも……。
インターネット上にはない資料が大学にはあります。
例えば、特に近代文学小説は、作品が原稿(草稿)から現代の形(主に文庫本)として流通するまでに、単行本であったり全集であったりと様々な編集経路を辿ります。その中には「初出」という、原稿(草稿)の第二段階のものがあり、主に雑誌に載せられています。そのような雑誌は、現在は流通していないものがほとんどであるため、大学など専門的な書を保管している場所でしか見ることが出来ないことが多々あるのです。

「なんで編集経路を辿る必要があるの?」
と思ったあなたは、文学部の才能があるかもしれません。答えを知るためにぜひ文学部にきて学んでみてください。編集経路を辿るためには、初出(時に草稿から)、単行本、全集、文庫、流布本を全て読み比べて異同の有無を確認するところから始まり、日付や時間軸の設定、舞台空間がフィクションであるか否かの検証など、考察に行き着くまでにとても地味で大変な作業を行います。でもそこにこそ作者の意図を見抜く大きなヒントが隠されていることも多いのです。

答えのないものを追い求める同志


(研究中の机の上です。)

「文学の研究なんて自分1人でもできるでしょ?」
さて、2つめの反論に参りましょう。
大学で文学を学ぶのと、趣味で1人で文学を研究するのとで大きく違うのは、「仲間」です。
それは、似たような趣味のお友達ができるとかそんな簡単なことではありません。
一口に『文学部』と言えども、みんな様々なバックグラウンドを持って集まっています。
「国語が得意だったから」、「本が好きだったから」、「国語の教師になりたいから」、「試験の教科的に文学部が簡単そうだったから」など、その理由は多岐にわたりま す。

でも共通していることが1つだけ。
特に近代日本文学を専攻すると、作品や資料、論文を含め膨大な文章量を読解しなければなりません。だからこそ、それに耐え得る人しか残らないのです。
決して全員が「活字が好き」だとは言いません。
現に私を含め周りには、「読んでも読んでも終わらない……」とため息をついている人たちがいっぱいいます。
それでもなんだかんだ言いながら、エンジンがかかれば自分の研究分野にのめりこみ、なんとか自分の意見や解釈を形にする人たちばかりなんです。
文学の解釈に答えはありません。だからこそバラエティに富む意見が提示されます。時には授業を受け持っている教授と全く意見が食い違うこともあり、バトルが繰り広げられることだって……(笑)。(私はまだ論破したことはありませんが)
上っ面ではない意見を提示してくれる仲間がいるからこそ、深まるものがあります。

「答えのないものを追い求めてどうするんだ?」って?
いいじゃないですか。
その答えに行き着くまでの過程にある様々な実証と根拠に、有意義な発見があるんです。
端から見れば探偵のようなその行為と、過程を楽しむ文学部の学問の美しさに私は魅了されています。

社会に出てから文学部で学んだことの何がどう役に立つかなんて、まだ社会に出ていない私にはわかりません。
大学に行く理由は人それぞれです。私は社会へ出る準備を学ぶために大学へ行こうとは1つも考えていませんでしたし、今でもそう思っています。社会へ出るためのスキルは、アルバイトや課外活動で身につけようと思って大学へ入学しました。
ただただ、この学問が好きなだけなんです。

なぜ私は今ここにいる


(立命館大学衣笠キャンパス)

さて。ここまで『文学部』にこだわり続けた理由をお話してきました。
ですが、コトカレ(ここのサイトの名前です)をよく読んでくださっている読者の方々ならきっと苦言を呈したくなるでしょう。

「じゃあ、なぜおまえは京都の立命館大学を選んだのか」と。

残念ながら、その理由については薄っぺらすぎてここではお話することが出来ません。
『文学部』にこだわるあまり、大学へのこだわりが薄すぎて、特に受験大学を細かく調べることなく、最終的に行き着いた先がここでした。
でもこれでよかったとつくづく思っています。
受験当時、文学部のある衣笠キャンパスが京都にあることすら知らなかった私は、立命館大学へ行くことが決定してから「おお、京都か……。え、文学の聖地とか運命やん?!」と思いました。
いくら近代日本文学研究を中心にしていると言えども、時の流れとその影響はとても大切なので、上代や中世など様々な時代の文学の研究も行います。また、芥川龍之介に多く見られるように古典をモチーフにした近代文学作品も多く存在します。
貴重な資料がたくさん眠り、文学が生まれたこの地を自らの足で歩くことができる……。
『文学部』にとってこんな好条件他にはないのではないかと、大学3回生になった今、そう思っています。

 

(立命館大学 文学部 山下杏子)

 

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