時間の流れ方が違う町、京都
もくじ
僕の今までについて
生まれも育ちも青森県の僕は小さいころから変わった人間で、なんと「競争が嫌い」という理由で1〜4年生まで小学校に行っていない。とにかく自由奔放に育ててもらった。学校に行っていない間は家で遊んだり、図書館に連れて行ってもらったり、親と一緒にボランティアをしたりしていた。
周りの同年代の子と比べても純粋で真面目でもろい子供だった。
どこかで見たのだが、不登校は「宿題を終わらせていない夏休み最終日がずっと続くようなもの」と言われ、自分でもまさにそう思う。当時の僕は不登校とは言うものの、かなり明るい性格だったので実感していなかったが、辛いことはたくさんあった。
学校に行こうとしても体が動かない(「動きたくない」のではなく「動くことができない」)し、同級生は自分とは全く違う生き物に見え、向こうも自分を異質なものとして見てくる。当時,僕は近所に唯一の友達がいたのだが、その友達の親はその子に僕と遊ぶことを禁じたらしく、その子も裏で僕のことを不登校ということで悪く言っていたことを知り、かなりショックを受けた。
5年生からは転校して少しずつ学校に行き出したし友達もできたが、他人と自分との感覚の差は拭えなかった。今思えば、なんと孤独な子供だろう。
「京都大学に行きたい」と思ったのは中学3年生の頃。何故そんなことを思ったのかはもう覚えていない。偏差値の高い所に行きたいという思いに加えて、京都大学は変な人が多いらしいので、自分でも受け入れてくれるんじゃないか、とでも思ったのだろう。
受験生の頃は毎日学校が終わると予備校に行き、21時まで勉強し帰って食事等を済ませ、2時か3時頃まで勉強した。それ程までに京都に行きたかった。
しかしそんな生活では体が持たず、体の弱かった僕は、肺に穴を開け結局浪人するという事態になる(今では笑い話だ)。そして京都への思いは益々強くなるのであった。
時間の流れ方が違う
そして、一年の浪人を終え、遂に京都である。
京都という街は時間の流れ方が他所と違うように思う。特に自分の住んでいる場所は学生街だし、友達も大学も文化も、全部が歩いて手の届く範囲内にある。
更に周りは山に囲まれているので結果として京都に「引き込もっている」感じがする。
京都には時間がたくさんあり、大学生にも時間がたくさんあるのだから、尚更だ。他所から来た人も外国人だってたくさんいる。そうすると、自分は何者か(何者になれるのか)というのを深く考えるようになる。
恥ずかしいから見せないが、自分はどういう人間なのかコツコツ考えたノートもあるぐらい、そういうことを考えるようになった。答えはあんまり出ていないけど、出ないものなのかなあとも思って、楽しく生きられるようになった。
孤独とこれから
僕はけっこう孤独感を抱えて育ってきたけど、人って大体そんなもんなんだろうとも思う。いつも誰かといる人も心では孤独を感じているかもしれないし、そう簡単に人は孤独から逃れられない。孤独を感じているからと言って自分は特別な人間だなどと偉そうに言う権利はないと思う。そもそも孤独は別に悪いことじゃない。
僕みたいに孤独を感じている人は多いだろうし、僕はそういう人をちょっとだけ支えてあげられるような人間になりたい。そんな軸が自分の「正義」だなあ、と京都に住んだ4年近くでぼんやり思うようになった。
結局、京都のどこが良いのか
京都にはたくさんの文化財がある。京都らしさは京都以外では感じられない。ここで学生生活を過ごせることはとても素晴らしいと思う。
だが、それだけではない。僕が大事だと思うのは、この街での経験を通して自分がどうなりたいか、だ。京都らしさは京都以外では感じられないが、他の街にもその街らしさがあるし,それはその街でしか感じることはできない。
特に大学生に必要なのは、自分の道を決めること。自分がどういう人間なのか知ること。京都に流れる独特の時間は自分を見つめやすくさせてくれる。
だから僕は京都に来たし、来て良かった。
(京都大学 法学部 太田アトム)