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なんてことない in 京都

唐突だが、わたしは市バスが好きだ。市バスは単なる移動手段にとどまらず、遊び道具としての可能性を秘めている、とわたしは思う。

京都の夏はアホほど暑い。しかも、湿度が非常に高いので、とてもタチが悪い。数年住んだぐらいでは、到底太刀打ちできない暑さだと思う。昼下がりまで外にいると、脳みそまで溶けていく。そんなとき、あえて乗客の少ない「ニッチな」路線に乗り込む。行き先は気にしなくていい。乗り込んでしまえばこっちのものだ。そこはすでに、天国なのだから。クーラーの効いた涼しい車内。ごとんごとん、と道に沿って揺れる車体。どうせ暇なんだから、時間なんて気にする必要もない。市バスに揺られていれば、それだけで流れる時間もゆっくりになる気がする。わたしは一番前の独立シート(一人席)が好みだが、席によって見える風景も変わるから、人によってお気に入りは違うかもしれない。というか、車窓の風景を見なければならない、なんて決まりもないのだ。読みかけの小説を読むのも一興、好きな音楽を聴くのもまた一興。でも、スマホはいったんしまった方が、素敵な旅になるかもしれない。

なんてことない in 京都

11系統の終点・山越中町(右京区)から。その名の通り、山の真横にある

いつの間にか、知らないところを走っている。かと思えば、偶然、世界遺産にたどり着いたりもする。そのうち、景色が少し田舎になる。山奥まで来るとさすがに不安になるけれど、京都にはバスの系統が山ほどあるので、乗り継いでいけばちゃんと帰れるのだ。最初に一日乗車券を買っておけば、500円で均一区間内は乗り降り自由になる。均一区間と言っても広いから、なんだかどこまでも行ける気がする。家で読書したり、スマホをいじったりするのもいいけれど、市バスに乗っていると、京都のまちに自分の時間が溶け込む感じがして、妙に心地よい。

家に帰りつくのは夜になるかもしれない。夜の市バスは、なまずのようにまちの彼方へ消えてゆく。その後姿を見送りながら、すべすべした、ぬるっとした、何とも言えない感触に襲われるのはわたしだけだろうか。

 

ぐうたらしてみようよ

京都に住みはじめて、今年で10年になる。昔からマイペースと言われてきたが、この10年でさらに拍車がかかり、立派に怠慢な学生に育ってしまった。

それでもわたしは、京都で怠惰に過ごすのが好きだ。計画立てた観光も楽しいけれど、思いつきだけの冒険にだって、山ほど発見がある。

京都に住むメリットは「ぐうたら過ごせる」ことにあると思う。ぐうたら過ごすということは、余裕をもって過ごすことだ。あなたがいざ京都を観光しようとするとき、相当な目的がない限りは、「住宅地を巡ろう」とはならないだろう。自分のまちにあるものをわざわざ見ようとは思わない。自らここまで足を運ぶ人は、ほとんどが「京都らしさ」を求めてきているはずだ。でも、せっかく京都の大学に4年も行くのなら、1日だけでもいいから、文化財だの、歴史都市だの抜きにした「ただの京都」を過ごす日があってもいいんじゃないか。「らしさ」では表せないものが、たしかにここにある。「京都らしさ」という非日常、「ただの京都」という日常のあいだに、わたしたちは暮らしている。

なんてことない in 京都

夕やけ空の映る桂川。嵐山・渡月橋付近より撮影

「ただの京都」は面白い

実際、「ただの京都」は結構面白い。まず、住んでいるうちに、自然とサブカルチャーに接する機会が増える。学生が多いからというのもあるけれど、アート系の展示や展覧会が至る所で行われているし、劇団活動やバンド活動も非常に盛んだ。四条河原町に行けばストリートミュージシャンも見かける。裏路地に入れば面白い雑貨店やカフェ、居酒屋があって、初めて見るようなヘンテコな店もたくさんある。話題には事欠かないだろう。何より、学生が多い。学生が多いことの良さは、他の部員が記事で書いている通りである。

河原でごろごろするのもいい。「鴨川等間隔」はとても有名だけど、鴨川はカップルだけのものではない。三条や四条から少し離れれば広々とした空間に出る。人前で楽器を演奏するのはちょっと……という人でも、ここなら練習できそうだ。夏には蛍が見えたり、広場に野良猫がいたりして、かわいい。悲しい話だって、鴨川は聞いてくれる。たくさんの人が、ここで話をしてきたのだろう。

さらに言えば、西の方にある桂川ものどかで好きだ。鴨川とは違うあたたかさがあって、ひなたぼっこでもしたいなあ、と思う。

「ただの京都」はそこら中に広がっている。観光ガイドには載っていなくても、きっと思い出の場所になる。

 

わたしが京都に来た理由

そういえば、「わたしが京都に来た(居座り続ける)理由」を書いていなかった。これはひとえに、「京都大学」に惹かれたからである。森見登美彦氏の小説を読んだことのある人ならご存じだろうが、あんなに独自の世界観・奇妙な噂がはびこる大学もそうそうないだろう。まんまと感化されてしまった高校生のわたしは、持ち前の好奇心と強烈な憧れを片手に、何があっても「京大」に行こうと決めた。めちゃくちゃ頑張った。結果、めでたく京大生となったのだが、慣れというのは怖いもので、今では身の回りで多少何が起きても「まあ、そんなものかなあ」と思うようになってしまった。今でもそこかしこに不思議な人、奇怪な趣味を持った人はわんさかいて、ヘンテコなことに囲まれて、面白いなあ、といつも思いながら過ごしている。ただ、あのとき憧れていた京大の「非日常性」は、気づかないうちに日常になっていた。

今までさんざん日常/非日常という言葉を使ってきたが、この、非日常が日常に溶け込む瞬間に、わたしは妖しさを感じずにはいられない。

 

妖しいまちだね、という話

京都というまちは、妖しい。古都の歴史は伊達ではなく、それこそ語りつくせない伝説・伝統を下敷きに、ごった煮の文化があり、その上を色々な人々が行きかっている。色々な意味で懐の広いまちだ。京都で暮らすことは、ほんとはとても現実的なことだ。それなのに、ふっと世界が原色に見えるような、自分が突然、物語の風景に落ちてしまったような、そんな感覚を覚えることがある。そんなときは、きっと非日常と日常が入り混じっているのだ。未だにうまく言葉にできないけれど、このまちにはギラギラした力がある。

なんてことない in 京都

なにはともあれ、京都の夏は暑い。夏が来る前から暑いけれど、夏前の青空は抜けるように綺麗だ。もしあなたが京都に来るのなら、なにも考えずに、空を見上げてほしい。

(京都大学 文学部 池垣早苗)

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