音楽と教師の道を歩む-原田博行さんが語る大学時代と音楽(前編)
シンガーフォークソングライター&ティーチャー。さらにサウンドロゴ・クリエイター(※サウンドロゴ…企業名や商品などをアピールするための、短い曲)というマルチな肩書をお持ちの原田博行さん。
実は、私にとっては同志社高校時代の恩師なんです。どのような学生時代を過ごされたのか、アーティスト活動と教師の両立について伺いました。
もくじ
原田博行さん プロフィール
1968年生まれ、京都府在住。洛北高校、同志社大学神学部を卒業。シンガーフォークソングライター&ティーチャー、サウンドロゴ・クリエーター、役者など幅広く活動中。
自身の楽曲以外にもテレビCMや社歌、企業CMなどを多数手がける。G.&Vo.として参加する京都町内会バンドは結成25周年を越えて活動中。役者としてはユニット「は・ひ・ふのか」を共同主宰。
KBS京都ラジオ「サウンド版ハンケイ500m」(毎週土曜日午後5時から)のパーソナリティー。また音楽活動と並行し、同志社中学・高等学校で、キリスト教学の嘱託講師を1995年から続けている。
学生時代を振り返って
――高校時代はどんな生徒でしたか?
1年生の1学期に1泊2日の合宿があり、その運営を担当しました。それがきっかけで、友達や学年全体で「学園祭は原田が仕切るよね」という雰囲気が生まれました。イベントに積極的に携わる「学園祭屋さん」を始め、高校の3年間は学校のことをめちゃくちゃたくさんやりました。だから、自分のやりたいことができた気がします。
また、中学校ではクラブ活動をしていなかったのですが、高校では友達と一緒にバスケ部に入りました。ただ、周りは経験者が多い中での活動でしたので、好きになる前にしんどくなり、1年生の夏休み後に辞めました。「しんどいからやめる」というのは、「自分には根性がない」という証明というか、コンプレックスになりましたね。
――なるほど。それから音楽はどのような経緯で始めたのですか?
高校2年生になった時に軽音楽部のバンドから「学外でライブをしたいのだけど原田、歌ってくれへんか」と誘われて、そのバンドに参加したことがきっかけです。1学期の終わりに、出演者募集があったライブの30分枠にエントリーして、初めて組んだバンドにもかかわらず出演する機会を得ました。
――ライブハウスには、どのようなイメージを抱いていましたか?
僕が通っていた塾では自分が英語で表現したいことばを学ぶことができる、アクティブラーニングのような授業がありました。僕はこの授業が大好きだったんです。英会話の先生はお芝居の勉強をしている外国人の先生でした。先生の紹介で高校1年生の時にライブハウスで見た演劇がかっこよくて、「自分もここに立ちたい」と思っていましたね。
――高校2年生の時、その夢が叶ったのですね。ステージに実際に立ってみていかがでしたか?
本番に向けて練習をして、一生懸命チケットを売ると、友達100人くらいが買ってくれて。夏休み終盤のライブハウスが満員になったんです。初めてのライブで、満員の中ステージに立つと照明がバーンとついて……。演奏が始まると大きな手拍子が起こりました。「二度とこの場所を離れたくない」くらい感動しましたね。
――この経験が原田さんにとって大きかったのでしょうか?
そうですね、高校生の段階で、「自分は音楽をやっていきたい」という気持ちになりました。ライブに来た友達が「めっちゃよかった」とか「売れるんじゃない」とか言ってくれて……。「本当に売れるんじゃないか」って僕もどこかで思っているわけですよ。学園祭も初めてのライブも、自分が携わったイベントは全部成功しているからって、大した根拠もないのに自信が生まれていました。
だから「社会が自分を必要とするんじゃないか」と思って大学受験に臨みましたが散々な結果で……。予備校に通うことになりました。
大学に入学、音楽に没頭した4年間
――浪人というお話が出ましたが、進路選びについてはどんなことを考えていましたか?
大学には、「4年間という時間を買いに行こう」という思いでした。現役の受験の時は、「東京に出たい」と思っていたのですが、親に「私立はダメだ」と言われていました。浪人で挑んだ受験では、「関東以外にも実家から通える範囲なら私立も受けていいよ」と言われました。同志社大学神学部にはなぜか受かった、という感覚でしたが、実家は教会だったので親は反対しませんでした。
一方で予備校にバイオリンも弾けてバンドも組んでいた人がいたので、彼に「この先の人生どうするの」と尋ねると「音楽でプロになる」 と断言されたんです。その影響で僕も「プロになる」と言うようになりました。「音楽でプロに」 と言ったのはこの時が初めてでしたね。
――大学入学してからは、音楽に没頭されていましたか?サークルには所属されていましたか?
入学後は、上の学年で頑張っているバンドにボーカルとして拾ってもらって上手くいけば、という思いでした。プロになるために最速で進みたいという感じですよね。
高校生の時にバスケ部がしんどくてやめてしまったこともあり、僕は組織に属するのが苦手だと感じていました。だからサークルには入りたくないと思っていたんです。また、高校生の時にライブハウスに出演した経験があるので、大学内のライブはもういいかなという気持ちもありました。
――では、バンドメンバーはどのように集められたのでしょうか?
大学1年生のゴールデンウイーク終わりぐらいの時期に一般教養の授業に出席していたら、小学校の同級生のお兄ちゃんが隣の席に座っていたんです。話かけると「作詞しているんか。そうしたら1回うちのバンドで歌ってみないか」って言われました。
――まさに運命的な出会いですね。それから活動はスムーズに進みましたか?
彼は音楽通で、すごく洋楽っぽいサウンドを作れる人でした。僕は、6月のライブに向けてバンドに参加して、ビートルズなどのカバー以外に、一曲だけオリジナルの歌を披露しました。この場で僕のことを「面白いボーカル」がいるぞと思ってくれた人が一定数いたんです。
ライブ後の打ち上げに参加して、そこにいた人たちが大学4年間一緒に音楽をする仲間になりました。これ以降は、このメンバーと一緒にライブをするという方向にシフトしていき ました。
――1つのライブに出演したことが、沢山の仲間との出会いに繋がったのですね。そんな音楽仲間とは、どのような場所で活動していましたか?
2012年に閉店した河原町ビブレの6階に100人くらい入れるホールがあったんです。このホールでは、主催ライブの運営を大学生に任せていたので、運営メンバー兼出演者として携わりました。ライブにはレコード会社の人が見に来てくれいたので、僕はこのままアーティストになっていくんだろうという感じでいました。ただ、僕に声をかけてくれた担当の方が会社を辞めてしまい、状況が変わったんです……。
「あかんことをした…」一つの出来事が転機に
――音楽仲間と活動を続ける中で、卒業後についてはどのように考えていましたか?
東京と京都でライブを続けているうちに、4回生になりました。将来に向けて何もしないわけにもいかず、オーディションを受けたところレコード会社の方から「原田くん面白いね」と声がかかったんです。今度こそ「音楽で上手くいくんじゃないか」という感じでした。
でも、この時期に2回生から続けていたバンドが解散し、新たに親友をメンバーに迎えることになりました。半年間かけて作った曲でライブ挑んだところ、「全然ダメだよね、原田君を活かせていないよね」と言われたんです。結果として親友をメンバーからはずすことになりました。
自分は友達によって成り立っていたのに、一番大切な友達を夢のために切るという自分の選択に、驚いたと同時にプロになる気持ちがひるんでしまいました。これは僕にとって大きな出来事でしたね。
それを機に「自分は何のために音楽をやっているのか」と考えるようになりました。プロにならなければとか、実力主義とか……。それ以上に僕が好きなことは、大好きな仲間が集まってくれた“空間”で、「よかった」と言ってくれた高校での“経験”です。その中に居続けたいという思いがあったのに、友達をメンバーからはずしたことがしっくりこなかったんです。
当時のメンバーは「原田がクビといったらクビだろう」と誰も文句を言いませんでしたが、自分の判断に対して「あかんことをした」という気持ちがどんどん膨らんで、苦しくなりました。神学部を卒業して1年半くらいの頃です。実家が教会でキリスト教の影響下にあったこともあり、この時に洗礼を受けてクリスチャンになりました。
後編へ続く
前編では学生生活と音楽について伺いました。一つの出会いから、沢山の仲間との出会いにつながっていったというお話から、行動を起こす大切さを感じましたね。
後編では、大学卒業後の原田さんと、現在の活動に迫ります。
(取材・文:同志社大学・法学部 梅垣里樹人)
(撮影:龍谷大学・政策学部 梅垣舞央香)